”ぷろ”ライターを目指す為のブログ

笑いについて

 


「日曜の16時に来てください」


飛ばれて、とある場所に行きました。

そこには3人の仕事仲間がいて、僕より2回り年上の方もいれば、年下の方もいて、ハタから見たら不思議な環境。

僕にまつわるいろんなお話をしたのですが、その中の一説にこんなものがありました。


「かっこよく見せようと思ってるの?」

「別に笑わせようとしなくて良いよ」


・・・不思議な感覚。


まるで心の内を見透かされたような気がして、途端に恥ずかしくなったのも、ある。

それと同時に、プライドなのかこだわりなのか、まるで自分の生き様を否定されたような感覚にも、なった。

 


火花。

この本の大きなテーマは、笑いとは何か?

主人公徳永は、師匠神谷に憧れ、ついて行くことによって、真の笑いを追い求める。


神谷は芯のある男だ。

だが同時に、道徳や倫理観が欠如しており、そのばの空気感をぶち壊す言動を一切ためらう事なく行う。

そこに真の面白さを見出して行くスタイル。


この気持ち、なんとなくだが僕にもわかる。

だが感じるのは、これは純粋なる笑いに対する求道心というよりは

既存の価値観を破壊したい、という思いだったり、

人と違ったことをしている自分、見て欲しい。もっと自分のことをみて!みたいな

自意識からくるものだということだ。


神谷さんの心のうちはわからないが、

本文を読む限り、そんな自意識を感じないかというと、そうではないのだ。

 

だが、神谷さんのスタイルによってしか起こらない”笑い”も存在する。

それはそれは高尚な笑いだと思う。


うーん、笑い、、というよりは、

格好良さと言い換えた方が良いかもしれない。


おそらく、神谷さんの生き様をカッコいいという人は、

100人いたら7人程度だろう。その7人も、時間が経てば大衆側に回るのではないかと思う。


だが、やっぱり、少なくともかっこいいとは思う。


どんな形であれ、信念を曲げないその姿勢は、

誰しもが見習うべきとこではあるし、特に今の草食男子日本社会で必要な要素だ。

 


だがやはり、笑いというものは、

壊さなくても、自然発生的に起こるものだと思う。

 

純粋に、相手に笑ってもらおうと思ったら、

別に、笑いを追求しなくても良いはずなんだ。


真のお笑い芸人とは、

お笑い芸人でないときに初めて、なれるものだと思う。

 

ただ、そこにいるだけでも、


面白い。

 

笑いにセンスや才能なんていらない。

 

ただただ、堅実に、普通に行きて、

目の前の人の笑顔を、ひたすらに追い求める。

そういうお笑い芸人で、俺はありたいと思うんだ。

 

 

 

「かっこよく見せようと思ってるの?」

「別に笑わせようとしなくて良いよ」

 

僕の心の中にも、神谷さんは存在する。真っ黒な渦を巻いて、片隅にぐるぐると潜んでいる。


僕はそんな神谷さんを否定せず、受け入れて、ゆっくりと、、

目の前の人を輝かせるための光玉に変えていきたい。

 

 

 

 

普通に生きる、ということ。


コンビニ人間

 

「普通」でいられない人。


本気で生きようと思って、挑戦しては失敗して、成長すればするほど、

普通から離れていくのが、現代社会の構造だと思う。


そして、出る杭は打たれる世の中だ。


人とちょっと違うことを言ったり、行動すると、

同調圧力というものが生まれ、「正しく」あろうとする。


昨今のコロナ騒動における、マスクやお注射はわかりやすい例といえる。


マスクをつけることの是非

お注射をするべきか否か


といった問題に対して、自分の頭で考え、選択して行動していくという人がどれほどいるだろうか。

多くの人は、周りがしているから、そういうものだから・・といった感じで、周囲の作り出した「普通」に合わせて生きようとする。

 

 


〜白羽さんと、古倉さん〜

 

コンビニ人間に登場する2人は、「THE変人」というコンビ名でM1にでも出れるのではないかと感じさせる、変人コンビである。

対して努力もせず、社会に適応できないが故に世の中を見下しつつも、

欲望に素直に生きる中年男性。まるで猿。白羽さん。

「社会から、隠してくれ」

といって、古倉さんの家に居候し、餌を食べながら息をする生活。

普通だったら、「わけわかんない、さっさと出てって!」となるところだが、白羽さんを家に住まわせることで古倉さんにもメリットがある。


”男が家に住むことになった”


という中身のない事実が、アラサー(アラフォー?)女子としての”あるべき姿”と重なり、

大多数の人間からすると、それだけで安心するのだ。

だから、「よかった〜!」「この人も、私達と一緒なんだ。普通に恋愛して、結婚して・・って歳をとっていくんだ!」と言った感じで。

古倉さんとしては、ただただ、コンビニで働きたいだけなのだ。


社会のあるべき姿とか、

普通を押し付けられるのではなく、愚直に目の前の仕事、お客様と向き合い、息していたいだけなのに・・

社会は、結婚とか、就職とか、あれこれ要求してくる。それが、ただただ面倒だった。その面倒から逃れるために、白羽を住ませた。といった話。

 


 


気持ちがわからなくもないな、と感じた。

僕は古倉さんのように、感情に対する捉われがないわけではないので、

大多数側の気持ちもわかるのだが、生きていると、社会と交わっていると、


「勉強してくれよ」


と言いたくなる場面が、多い。


僕は今フリーターとして生計を立てつつ、借金も抱えながら暮らしているが、はたからみたら、


「いつまでもフリーターそして働いてるわけにはいかないんだよ?社会はそんな甘くないんだよ?」


みたく感じるところもあるだろう。


表面的な部分だけをみて判断されても、何も説得力を感じない。


僕がフリーターとして働いているのには、いくつかの複合的な理由が重なっている。

様々な要因が球面体的に交わりあって、今の働き方が生まれているのだ。


様々な要因をもとに、あらゆる可能性を考慮に入れた上で、

人生の道筋を決めていくのが、真っ当に生きるということではないだろうか。


だがそのためには、勉強しなくてはいけない。


そもそも勉強していなくては、どう生き方を選択していけば良いだろうか。

 

だから、僕に生き方のアドバイスをする人に対しては、

「ありがとうございます。」と、感謝しつつ、生き方として参考にしつつも、

全てを受け入れることは、はっきり言ってほとんどない。

的外れな意見をいちいち鵜呑みにしていては、体がいくつあっても足りないからだ。

 

 

 

集合的無意識(大多数の価値観集合体)に呑まれない生き方を目指している。


その意味で、古倉と白羽の生き方は、共感できるところが、ある、、、が


彼らは、とにかく極端なのだ。


特に白羽に関しては、反面教師としてみるしかない。

僕もフリーターとして、こうはなりたくないと、烈々に感じた。

 

だが、古倉の働き方は、神様に近いと感じた。

ある意味、我々人間の底に眠る魂が、求めている理想像とも言えるだろう。


自分の置かれている役割に対して、我を挟まず、無心で取り組む。

人に限らず、万物は常に、「存在意義」を見出したいと思っているのだろう。


モノだったら、モノとしての役割を発揮したいと思ってるし、

言わずもがな、ヒトはヒトとして、己の使命、天命を全うしたいと思っている。


だが、そこに自意識が挟まってくると、

自分が求められているもの、今本当にすべきことが見えなくなっていくものだ。


好きだから・・やる。

得意だから・・やるなど。


もちろん、好きなことをやるのは良いと思うし、得意を生かしていけば良いと思う。


だが、目の前に求められている仕事があるのに、そこから目を背けて我が道を進むのはどうだろうか?とも思う。


なので究極、我を挟まず、目の前のコトに対して自分の全力を尽くすことができるか否かで、その人のレベル感というものが決まってくるのかなと。


コンビニ、というフィールドにおいて求められる理想像を、

古倉は見事に体現していた。


僕もコンビニ店員をしているが、働き方としてまさに模範解答に感じた。

 

古倉は、コンビニ店員として働く限り、

どうしようもなく幸せなんじゃないか、と思う。

 

ある意味僕も、この領域を目指していると言える。

ファーストフード店でのアルバイトをしているが、まるでそのお店と一体になるかのように、のめり込んで働くことができれば・・!と思うようになった。

 

傑作でした。ありがとうございます。

 

 

 

 

 

2.感覚をインストールしていくこと

憧れる人の、考え、感覚をどんどん取り入れていく。

 

現代は、それがやりやすい時代だ。

 

ある意味、最強になれる。

 

 

同時に、天狗になりやすい時代でもある。

 

 

だからこそ、目の前の人の幸せに繋がるよう、

定期的に力のチューニングをする必要があるな、と思う。

1.踊りはご神事である

 

踊りには、何かしら呪力があると思う。

音に呪力があるように、、

 

願いを叶えたり、世界を創造する力が。

 

だから、今日も踊った。

 

あの時の祈りが、届いてたら良いんだが。

 

 

 

また明日も来る。

明日はどう色どろう。

 

大祓祝詞に挑戦することにした。

 

楽しみだ。

シャーリプトラよ

僕は、じぶんのことを、天才だと思っている。

 

だが同時に、究極の凡人だとも思っている。

 

物事ってのは、常に多面的で、球面体的だ。

 

 

 

要するに、見方によって解釈が360度変わるということだ。

 

一方では正義でも、一方では悪だったりする。

 

 

だから、難しい。

 

 

 

 

僕はいま、踊っていた。

 

即興で踊っていた。

 

 

僕が伝えたいのは

 

ただ切ないだけじゃなくて

本当に切ない思いなんだ。

 

切ないっていう、世間一般の常識じゃなくて

 

ほんとに、切ない思いを伝えたいんだ。

 

 

だから、精一杯切なさを体感しなくてはいけない。

 

 

考えて出すものではなく

ただ、、感じるものだからだ。

 

 

表現に、全て出る。

 

 

 

 

うん。

ことばを愛せ

 

ちゃす。

 

 

うすけです。

 

 

ぼく、むかしからあまりあだ名で呼ばれることがなくて

常々、あだなで呼ばれたいな〜とか思ってたんですが

 

なんと、寿司屋バイトの先輩(高校2年生。会うたびにお尻をいやらしく触ってくる。)が"うすけ"という御神名を授けて下さったので

 

今回は、なんか採用してみました。

 

 

 

でもごめん先輩、あんまりしっくりこないやw

 

  

 

 

と、いうわけで、改めて、

 

 

ゆうすけです。こんにちは。

 

 

  

 

 

 

 

つれづれなるままに文章を書く習慣始めてから、つくづく思うことがあって、それが何かというと

 

 

文章表現の落とし所って何だろう??

 

 

ということです。

 

 

昔からの癖なんですかね、何事にも落とし所を求めてしまう。

 

例えば僕が学生時代やっていたダンスですが、「なんのためにダンスをしているんだ」「ダンスを通じて何を得れるのか」「ダンサーとしてどういう結果を出したいのか」

といった、終着点を自ら見出して、そこに納得いかないとぜんっぜん練習に身が入りませんでした。

 

 

腑に落ちてないと、何事も続かないし、

エネルギーわきでないから、すぐ眠くなるし、すぐ浮気してしまう、、

 

だから、特に僕の場合は

脳の中をスッキリさせて、常に落とし所を見据えながら生きるのが性に合ってるんです。

 

 

そんなこんなで、文章書きながら

落とし所探しをしているわけですが、、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毎日通ってる珈琲屋の店員さんに、おすすめしてもらった本があって

 

草柳太蔵さんという方の「花は天に向かって活けよ」というもの。これが心地よくって最近コーヒー片手に読むんです。

 

評論家でありジャーナリストの草柳さん。エッセイ集のような本ですが、読んでいるとまるで"トリップ"したような感覚になります。

 

本を読む

 

という行為が

 

旅をする

 

という行為に結びつくんです。不思議ですよね。

 

 

日本人

 

人生

 

社会

 

 

…といったものに対して、日常我々が触れたり見たりするものを材料に、切り込んでいくかんじ。世界各地の名産品を切り込んでくださるので、いろんな味を楽しめるのです。

 

 

 

 

 

 

きっと、芸術家の仕事って、これなんだと思います。

 

 

切り込み方が、絵だったり、歌だったり、踊りだったり。それは人それぞれですが、結局やってるのって

 

 

色んな世界にいって材料を調達して

 

切り込み方を学んで、練習して、磨いて、

 

調理して、味見して、提供する。そうやって繰り返される試行錯誤。このプロセスそのものが芸術なのではないでしょうか。そして、芸術こそが、人が人として生きる"愉しみ"なのだと思います。

 

 

折角生まれてきたのだから、

 

 

 

Twitterのいいね数みたいな、負の資産を追い求めるのではなく

 

 

魂の躍動、生命の栄養、有終の美を追い求めたい。そういう人生でありたい。そういう生き様を貫きたい。

 

 

だから僕は、生涯芸術家であり続けよう、あり続けろ、と思うわけです。

 

 

 

 

 

 

芸術を志す人って、ついつい術にばかり目が行きがちなんです。

 

 

もっと上手くなりたい

 

もっと評価されたい

 

もっと認められたい、自らの作品を認めたい。

 

 

でもそうやって、肩に力が入った状態で描いた絵は

 

時に、また新たな負の資産を増やしてしまう。

 

 

負の資産が増えればふえるほど、足取りが重くなり、出口の見つからない迷路で彷徨うことになる。

 

 

そもそも出口なんかないのに。強いて言うなら、今そこにいる場所こそが、入口であり出口でもあるのに。

 

だから、

 

 

ただ歌う

 

ただ描く

 

ただ踊る

 

 

って、大事だと思うんですよね。

 

 

 

でもさ、現実って

 

そう簡単にはいかなくて。

 

 

 

例えば、歌が好きだから!と、歌手を目指して頑張る学生がいる。

毎週決まった曜日にスタジオ行って、練習して、SNSかなんかにアップして

 

プロデューサーの目に運良く止まったり

なにかオーディションに合格したりなんかしたら

 

プロの歌手としてデビューすることができたり。

 

 

歌だけで飯が食えるようになるのを目指して

 

バイトなんかしながら、目標を据えて色んな挑戦する…みたいな。

 

 

好きなことを仕事にするって

 

 

難しいよね、みたいな。

 

 

  

 

 

俺、自分がそうだったからこそ   

 

 

すごく悔しくて。

 

 

 

 

夢を持って、必死に頑張ってる人をみると、

ほんと応援したくなるし、そういう人好きなんだけど

 

 

言いたい。

 

 

 

  

頑張らなくても、良いんだよって。

 

 

 

 

大丈夫だよって。

 

    

 

 

その努力、経験、葛藤は、

必ず後々、どこかのタイミングで、花開く時が来るから。

 

 

理想を追い求めながら

現実ともしっかり向き合うんだ。

 

 

理想と現実が、重なる瞬間が必ず来るから。

 

 

その瞬間は、辛いかもしれない。

 

 

いままで大事にしていた、夢を手放さなければならないかもしれないから。

 

でも、そうやって重ね続けていけば

 

 

ある時ふと、落とし所が見つかって

今この瞬間を、楽しめるようになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ことばを愛せ。

 

ことばは、理想と現実の架け橋だと思う。

 

 

ことばにする習慣がある人は

物語を進めるスピードが速い。

 

 

自分の思いをありのまま

 

ノートに書き出そう。

 

 

 

 

そうすればきっと、今やるべきことが

自ら、出てくるはず。

 

 

 

 

    

 

 

 

 

この記事が、あなたの落とし所探しに少しでも役立てば幸いです。

 

たかが人生、されど人生

 

 

たまにはいいですかね。

 

こうやって、スマホ片手にカタカタとエッセイ書くのも。目的?そんなものありません。

 

 

 

ただ、書く。

 

 

 

それがきっと、"書く"の本質でしょう。

 

 

 

外は雨が降っていて、気づいたら夏が終わったと思ったら、気づいたら秋が終わりそうになる、そんな時期です。いやぁ、トキノナガレというものは、はやいはやい。

 

 

あ、そういえば

 

 

つい先々週くらいに、"あの団体"の中にあるとあるコミュニティのお茶会に行きまして。

 

6人くらいのチームになって、お互いの近況報告や、今後の活動の指針を確かめ合ったのですが

その中で、僕のめちゃくちゃ嫌な、逃げたい、避けたいテーマを

突きつけられました。まぁ正確には、諭されたって感じです。

 

 

 

"慎め"

 

 

 

あらゆる方面から、言われてることです。

 

簡単に解釈すると

 

 

ないものではなく

 

あるものに目を向けろ

 

 

というものなのですが、これはもう人生のテーマもいっても何ら違和感のない

壮大かつ強靭なテーマです。むずいむずい。

 

マサラタウンを飛び出して、いきなりチャンピオンロードに入っちゃった、ヤベェやべえ、、しかも逃げられねえ!みたいな難易度です。

(あんまりよくわからないですね、はい。)

 

 

 

とかくぼくは、ないものねだりな人生を送っているわけです。

 

学生時代からそうです。いない彼女を欲しがったり、ない力を得ようとしたり

社会人になってからも、ないお金を稼ごうとしたり、ない知名度に憧れたり、、

 

ないものを求めて、突き進んでる瞬間は

頭に血が上って、自分で言うのもアレですが、結構なパワーを出せます。

 

勢いでいったら、中々良い線いくんじゃないでしょうか。

 

 

でもね、そうやってないものを求めよう求めようとしていると

ついつい目の前の人の思いとか、自分の本来やるべきこととか、

 

何より、感謝を忘れてしまいます。

 

 

僕がこうして生きているのも、お天道様、守護霊様が見守って下さっているからだし

 

仕事できているのも、店長やマネージャー、あの団体のラーメンやパンやコーヒーがあるおかげだし

 

豊かに暮らせるのも、たくさんのモノに囲まれているおかげだし

 

まぁなんとか幸せにやっていけてるのも

おかあさんやおとうさんの支えがあるおかげだし

 

 

自分一人で完結してることなんて

いっちゃえば、ひとつもない。

 

そこに対する、徹底的な自覚を持つことが

僕の今のテーマやなぁあって諭されました。

 

 

 

慎みます。。。

 

 

 

 

10月に入ってから結構色々変わってて

今までより、足元を見ることが多くなりました。

 

これは僕に限ったことではないのかもしれませんが、

ついつい人って、「本番」にばかり目がいってしまいます。

 

 

大学受験とか良い例ですよね。

 

 

受験当日に、最大限パフォーマンスを発揮できるように、毎日勉強のお手伝いをする。塾のお役目って、それだと思います。

 

ですが、僕はそこに落とし穴があると思ってて

 

 

 

「そもそも、なんで受験をするのか?」

 

 

の部分に、その人の「準備」が込められてるわけですよ。

 

その人自身の、ストーリー。どんな終着点でしめたいのか?どんな物語を描きたいのか?

 

そこの部分を、ちゃんと考えてないと、

 

 

ただ、勉強して、ただ、受験して、ただ、受かって、、みたいな感じで、、、

 

 

受験が人生の中でどういう役割を発揮するのか?が腑に落ちないまま、終えてしまうと思うんです。

 

腑に落ちないまま終わってしまうと、

受験を通じてえた教訓が、次にちゃんと活かせなかったりする。非常にもったいないですね。

 

 

そして、

受験が終わったら、ちゃんと受験を振り返って

「後片付け」する時間が必要でしょう。

 

次にまた新しいスタートダッシュを切るために、

 

いらぬ参考書を捨てたりとか、

蓄積されたいらぬこだわりを手放したりとか。

 

 

特に僕は受験時代、結構頑張ったおかげでちゃんと成果が出たわけですが

同時に、「なが〜〜い天狗鼻」と、「真っ黒で強い心」も手にしてしまったので

 

それにはいまでも悩まされています。さっさと手放せばよかったのに。

 

 

そんな感じで、物事には

 

本番以外にも、準備や後片付けがあると思われるのですが

最近は積極的に、後片付けをやってます。

特に皿洗い!これはもー大事ね。

 

 

 

 

 

んま、そんな感じで

 

 

 

ようは何が言いたかったかというと

 

 

 

 

 

わりとしあわせにやってます、ということです。

 

では。